ブログを書こうとしては筆が止まる…ということを繰り返して早一月を超えました。
何が私の筆を止めるかというと、ありがちな「ブログ記事のテンプレート」感。
最後に『いかがでしたか?』なんて付けちゃっても違和感ないような、自分の嫌いな記事のが絡みついてきて、どうにも文章がまとまりません。
キュレーション記事は大っ嫌いです。書いている人の体験がない、他人の引用だらけの記事は読む気もしませんし信用もできません。
大っ嫌いであるはずのキュレーション記事的な雰囲気が私の書く文章ににじみ出てきてしまい、自分の書く文章が嫌いになりました。
そうやってまた、「私はなぜ書くのか」という問いに戻ってくるわけです。
公開する意味はどこに
人に見せるための文章を書いているのにその筆が思ったように滑らないとき、「もうこれ公開しなくてもいいんじゃないの」と思い留まることがよくあります。そんなときでも完成させて公開することに、私は何の意味を見出しているのか。
以前書いた記事で今流行りのブロガーになりたくないという思いをつづっていたのですが、それだけでは「公開」に至る理由にはなりません。
正直、好き勝手書きたいだけならばEvernoteに書き散らかせば十分なんですよ。ウェブという全世界に拓けた世界に発信する必要は必ずしもないんです。
そんな文章の断片が私のEvernoteにごろごろ転がっています。
でもウェブで公開したいんです。何故か公開したいと思っているんです。
私は共感したいし、されたい
このツイートが目に飛び込んできて、私の「なぜ書くのか」という問いへの光明が見えました。
このえびふらいさんの「自分の思いついたことと同じ考えの人がいないか検索する」行動、私もよくやることだったから。
「あの映画、面白くなかったけどそういう感想はないかな」や「これおかしいと思うんだけど他にそう思ってる人はいないだろうか」とか、なんとなく自分が大多数側ではないと感じるときにやりがちです。
自分と同じようなことを書いている人を発見しては、喜んだり安堵したり。あるいは自分の考えと少しずれた記事を読んで、考えを深めたりもやもやしたり。
自分の思いついたことが常識的なことならば同じことを考えている仲間や情報を探す必要はありません。
自分ひとりだったらどうしようという、異常なことではないか、マイノリティではないかという不安や期待が仲間を探させるのでしょう。
こういう風に検索を使う人がどれほどいるか知りませんが、少なくとも私一人ではないことを知りました。これが少数派なのかは知りませんが、それぞれが発信しないとその意見が少数か多数かなんて判断もできませんよね。
私も「共感される」記事を生み出したい。
共感というほど深くなくとも、こういう考えの人間がここにいるよーということを、たどり着いた人にアピールしていたい。
それはその場ですぐに役に立たないようなことでも、いつか同じことを思って検索する人がいれば、私の目的である「共感されること」は達成されます。
そのいつかが来ることを楽しみにしています。来なかったら来なかったです。稚拙な文章が悪いのかもしれませんし、考えが浅いのかもしれませんし、話題が悪かったりGoogle検索が悪かったりするのかもしれません。
無理して共感やバズることを狙うのではなく、たった一人にだけでも刺さることが書ければ、私は幸せなんだと思います。
終わりに
この記事も、いつか誰かが同じことを思って検索で見つけてくれたりするのでしょうか。それだと本当に嬉しいですね。
スランプの大本であった「キュレーション系テンプレ感」からどうやって抜け出すかについては、「文章内の見出しを先に考えないこと」「キュレーションサイトはブラウザバック」「主観的になること」の3点でなんとなく脱することができた気がします。とはいえ書き出し文で詰まると書けなくなるので、キュレーション記事の雰囲気にならないコツが他にもあれば是非知りたいところです。
更新が止まっている間も、Google検索経由で読まれていたり、少しですがTwitterでシェアをしてくださったりと、自分の「共感してもらいたい」という思いは達成されているのだなあと嬉しくなりました。
スランプ中に自分の文章を見直しては、「ちょっと壮大に書きすぎw」とか「かぎかっこや句点の使い方がくどい」とか、今後の反省点が見えたので無意味ではないと信じたいところです。